執筆者 あのんの教室 代講 ぴょぴょ
師匠「お馬鹿さんを混乱させるためにそう言ったのか、修辞的な言い回しとしてそう言ったのかわたしは知らないんですけど、『好きの反対は無関心』という言葉がありますね」
弟子「はい。正確には『好き嫌いの反対は無関心』(*1)です。子供のわたしでさえ最初にその言葉を聞いた瞬間に本来の意味はわかりました」
(自分がお馬鹿でないことをこまめに言っておくわたし)
師匠「では『納得』の反対はなんですか」
弟子「ご立派な師匠の優秀な弟子であるわたしはいましびれました。それ、難しいですよー」
師匠「ではよい練習ですね。書いてもらいましょう」
うわーん。また書かされる。 (優秀な弟子♪ 優秀な弟子♪ 師匠の華麗な看過は自然体♪)
1.誰がなにに納得するか
2.納得の効果
3.納得とは価値判断の是認である
4.納得の反対
1.誰がなにに納得するか
「納得の反対はなにか」という問いを考えるために「納得とはなにか」をまず考えねばなりません。
順に行きましょう。
「納得するのは誰か」。はい。「自分」です。ほかの誰かであっても、その誰か自身である「自分」です。
「納得とはなにに対するものであるか」。
これを考えるとき、納得とは無関係のものを先に挙げてみましょう。
実際にある(あった)出来事で、その事実に対して自分も含め誰も異存がないものは納得とは無関係です。それは誰かの納得とは無関係に「存在している(いた)」。
一般に「事実判断」と言われるものです。(例:彼の身長は180センチである)
これは納得とは無関係です。
次に納得できたりできなかったりするものを考えてみましょう。
同一の事実について意見の分かれるものですね。
A嬢とB嬢ではA嬢のほうが美人である。いや違う、B嬢のほうが美人である。
A嬢とB嬢の顔を見る複数の者は、同一のA嬢の顔を見て同一のB嬢の顔を見ています。しかし意見は違う。
これは好みが違うからですね。この好みを価値と言い換えることができます。
こういう判断は「価値判断」と言われます。(例:彼は背が高い)
価値判断では、それに同意できればなんの問題もありません。しかし同意できなければああだこうだと言いあいが発生します。
「事実判断」(例:彼の身長は180センチである)に納得は無関係である。
「価値判断」(例:彼は背が高い)に自分は納得できたりできなかったりする。
納得の対象となるのは「価値判断」です。
2.納得の効果
では次に「納得の効果」を考えてみます。
ある問題があってその問題が難しい、うーんわからんなあ、あ、ひらめいた。これはこうしてああすれば解決できる。うわ、やったぞ、できたできた一件落着。
これは「問題」→「解決」、めでたしめでたしで終了します。
この「問題→解決」の流れを納得を含む一連の流れに当てはめてみます。
対象→価値判断→結果に納得→その件は終了。(自分によって是認された)
対象→価値判断→結果に納得しない→その件は終了しない。(結果が出ない)
納得すると対象に対する判断は作業として終結します。腑に落ちた、ですね。
納得しないと判断は終結しません。腑に落ちない、というやつです。(「判断の結果は納得できるものではなかった」との結論を出すこともできますが、それは「納得しなかったという事実の報告」であります。判断は終結していません)
出来事が順番に進行し外形的に順調であったとしても、それらのいずれかに対して納得できなければ、その人の内部では「未終了のまま放置」という状態で置いていかれます。
つまり、納得は「判断を終結させる」という効果があります。
3.納得とは価値判断の是認である
納得できないとその判断は終結しない、という見方からすると「納得とは価値判断の是認である」となります。
本人の納得にかかわりなく多くの価値判断は本人のまわりで日常的に処理されています。いちいち異議を口にしていたらおそらく健全な社会生活はおくれません。通常は本人に被害が及ばなければ「どうぞ勝手に」と気づかないふりをしておいたほうが楽です。
しかし、「どうぞ勝手に」と気づかないふりをしていてもそれに納得したわけではありません。多くの納得できない事柄でこの社会は動いておるのであーる。
さて、判断を終結させるということはその判断の是認・再確認です。これはその判断対象が含まれる世界を是認・再確認したことを意味しています。「世界の再構築」ですね。土台の世界を否定しておいてその上に乗っかる部分をだけを是認するということはないからね。
ただ、納得できなかったとき、世界を是認・再確認するものではない、を意味しません。土台の世界は本人が生まれてからずっと育ってきた世界であるからね。その時の対象が納得できなかっただけ。
4.納得の反対
お題の「納得の反対とは」は「『納得すること』の反対とは」であります。
となると「『価値判断を是認すること』の反対とは」であります。
これは「価値判断を是認しない」でいいのかなあ。
(p→q)のとき、¬(p→q) は p∧¬q。わたしゃ子供、数学わからない。誰か教えて数学わかる人。「価値判断があるのならそれは是認」の否定は「価値判断があり、かつ是認しない」(んと、んと、この言葉が論理式にちゃんとなっているのかわからないし、そもそも論理式にしていいのかどうかもわからない。まちがえていたらあとで訂正する、ということで先に進みます)
まあ、このあたり全然自信がありません。おもいっきりまちがえているような気もします。
ええとつまり、その判断が是認されないので、その判断は終結しない。
腑に落ちないままの状態です。
「納得の反対とは、そのことがうまく判断完了まで至っていない」
(なんじゃこれ、そのままではないか)
あのう師匠、こんな解答でいいんですかねえ。
ある問題があってそれをわいわいと検討した結果、当然すぎる結論しか出てこなかった。検討したのであるから検討しないよりましだけど、当たり前すぎてずっこけた。
ずて。
(*1) 対象に対する好き嫌いという感情のあることの反対は、そのような感情が発生しない無関心。
同じ構造の言い方では「安いの反対は無価値」も可。物品が高かったり安かったりするのは経済的側面の反映であるが、高いにしろ安いにしろ反映できる価値すらもなければ無価値である。
さらにまた、「価値を反映させる」ことの反対の「貴重でありすぎるゆえ価値を反映させるという判断になじまないもの」も可能であろう。自分の命や家族や愛する人たちの命などの価値は計量できない。すると「高いの反対はとても大切なもの(命など)」も言える。
このようなまぎらわしい不正確な言い方は不親切なので、このようなことを得意になって言う輩は馬鹿にしてよろしい。(さて、このことを説明したわたしもそれに含まれるだろうか)
(2016.11.19掲載)
(メモ)
「p→q のとき、¬(p→q) は p∧¬q」において、pが事実判断であるときはまあいいような気がします。
「気がする」だけでもちろん確信はありません。
で、pが価値判断であるときはどうなんでしょうかねえ。
これを考えるのは現時点ではわたしの能力不足です。
【あとで師匠は白状しました】
「『納得』の反対はなにか」という問い、その場の思いつきで口にしたそうです。
弟子に資するなにかを考えての発言ではなくて、なーんも考えてない思いつきだったそうです。
ああ、当教室で弟子は師匠の気まぐれで鍛えられるのである。
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