「意味」の成分は「定義」と「目的」だけど、定義を措いておいて考えると、その「目的」に人の愚かさがたくさんまじっているなあ。
目的論的宗教主義
小学生のころはねえ、「科学」に絶大な信頼を置いていたんです。
中学生になって興味の対象が哲学へ移り、疾風怒涛を経て「大馬鹿者時代」。
高校生ぐらいかなあ、やがて宗教がおもしろくなりました。
反証可能性や無定義語の向こう側の「科学的曖昧さ」を認めつついまは「目的論的宗教主義」で科学が一番だと考えています。
あのん用語「宗教」
わたしが使用する「宗教」という言葉には二種類あります。
一般に通用している意味でと、わたし独自に定義しているものです。
「目的論的宗教主義」といった場合はわたしの用語で遣っています。
そして「科学ばんじゃい」の立場であります。
説明はまた別の機会に。
一つの視座です
「目的論的宗教主義」はわたし個人の「世界の捉え方」であります。
「宗教」という言葉が入っていますが、現在の地球上に存する個別の具体的宗教団体(および類似団体・なりすまし団体)の持つ教理とは関係がありません。
哲学的な世界認識の一手段というのが一番近いかな。
それを説明することはありますがおしつけることはしませんのでご安心を。
メタ哲学のアイデア
ふと思いつく。
世界内の全ての哲学やら世界認識やらを包括する立場を簡単に一言で言いきってしまうその概念について考えていて、あれれ、この概念は哲学ではなくメタ哲学ではないか、と気づく。(自慢で言うが、その概念の哲学的意義は自力で発見した。わたしは現行の常識とは異なる概念をいくつか発見しておるが、それらは広く知られていないがゆえに大事には至っていない)
この概念は以前から世界の説明に使えると思っていたが、哲学そのものを説明できるメタ哲学であることにいままで気づいていなかった。まあわたしはこの程度の馬鹿である。
ああ。また弟子に講義せねばならんことが増えた。
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