あのんの辞典 注釈 別添

 

 

気にもしていなかった『概念』

 

 

だけどあなたは概念の海に浮かぶ小舟

 

「裸の事実」と「衣服をまとった事実」

 

 

執筆者 あのんの教室 代講 ぴょぴょ

 

 

「もちろんわたしたちは『事実の世界』に生きている。しかし弟子よ、その『事実』の上に『概念』が乗っかっているんだよ」とあのん師匠。

「『概念』を取り払うとね、そこにあるのは『意味のない事実』だけなんだよ。わかってるね。じゃ、それを書きなさい」

 うわ。

 またわたしは書かされることになりました。

(その直後の「わたし、書くの、めんどうくさいから」の師匠の小さな呟きを聞いてしまった。今夜、いきなり師匠の頭上に雷が落ちたり、寝静まった師匠宅が異界から召喚された怪獣に踏みつぶされたりしませんように)

 

1.見てもわからない

2.二つの「事実」

3.先験的なものは「裸の事実」、そこにまだ意味はない

4.ただしこれは存在論的な話ではない

 

1.見てもわからない

 以前にあのん師匠は次のようなお話をしてくださいました。

 その内容は師匠がさらに以前にお読みになった本に載っていたことで、それを話してくださった当時、すでに師匠はうろ覚えでいらっしゃったそうです。

 うろ覚えのお話をわたしが適当に聞き、今ここに記すとさらにあやふやでありますが、確かにそうなんだろうなと納得できる話であります。

 昔、英語圏のある国にある男の人がいました。

 その人は生まれつき目が悪く、幼い頃はまだかすかに見えていました。しかしすぐに見えなくなってそれ以降盲目となりました。ただ、幼い頃に家の近くの林や小川を見たかすかな記憶だけはあったそうです。

 その人が中年になる頃か、医学が進みその人の目を手術で治すことができるようになりました。手術を受けました。うまくいって目が見えるようになりました。

 さて、その人は盲人のための教育を受けたので点字で文章は読めます。またアルファベットも指で凹凸などをなぞることで形はわかります。

 目が見えるようになって、アルファベットは形がわかるので「文字を見てそれを読むことができる」ことを喜びました。

 指先でさわらなくても離れた場所に書かれてある文字が読める。

 しかし。

 目の前のコップを見ても、椅子を見ても「それがなにかわかりません」。

 いえ、ちゃんと見えているんですよ。なにしろ文字が読めるんですから。

 その人、なにかわからないものをさわりました。「これは液体を入れて飲むための容器だ。つまり、コップだ」

 次にまたなにかわからないものをさわりました。「これは人が腰掛けるための家具だ。つまり、椅子だ」

 手でさわったらわかるけれど「見てもわからない」。

 さわったらわかるのは、指でさわって得られる刺激が形成した「触覚像」とコップや椅子という「概念」がつながっているからです。

 でも、目から入る「視覚像」と「概念」がつながっていないんです。目はコップや椅子を見ている。しかしそれがコップや椅子という「概念」を想起させない。だからそれがなにか「見てもわからない」。

 もちろんすぐに「これはコップだ」「これは椅子だ」と見てわかるようになりました。新たな経験によって「視覚像と概念がつながったから」です。

 これはね、「それ」と「概念」がつながっていないと「それがなんであるかわからない」をわかりやすく示しています。

「それ」があるだけでは「そこに意味はありません」。「それと概念」が経験的に結びつけられて初めて「それについての意味」が発生します。

 この「それと概念をつなぐ」という経験がないと、「見てもわからない」。

 

2.二つの「事実」

「ある事物や事象」の持つ意味は、それらと関連づけられた「概念」によってもたらされます。

 このとき、「関連づける」「関連づけられる」とは経験にほかなりません。

「それ」に最初から「本来の意味」があるわけじゃないんですね。概念との関連が経験によって付加されるんです。あるいは「意味が定義される」と言ってもいいでしょう。

 これから次のようにあのん師匠の用語を用います。

 まだ概念が乗っかっていない事実を「裸の事実」と言い、その「裸の事実」の上に関連づけられた概念をまとったものを「衣服をまとった事実」(以下、「着た事実」)と言うことにします。

「裸の事実」は事実として生起はしましたが、そこにまだ概念が乗っかっていないので何も意味を持ちません。上記の1では、目が見えるようになった人が最初に見たコップや椅子です。コップや椅子という現物が目の前にあってもそれがなんの用途に使うものかわかりません。物はあっても意味はない。

 それは存在はしているが、存在しているということ以外の属性を認識できる経験をそれを見た者が持たないものか、あるいは部分的な属性を認識し理解しているとしてもその部分的属性からそれ自体の本来の主要な意味を導けないものです。

 上記1では、見たままのコップの大きさや形状や色(ただし、それが「何色」と呼ばれるかや「色の持つ印象、赤は火を連想し熱い暖かい、青は水を連想し冷たい涼しいなど」はまだない)を知覚するものの、コップの用途、存在意義がわからない。なぜその大きさなのか、なぜそんな形や色なのか。

 これは「存在しているということ以外の属性を持っていない」を意味しません。ただ、それを見る者によって「概念づけられていない」だけです。

「着た事実」はその事実に概念がひっついて意味を持っています。上記1では触覚像によるコップや椅子という用途としての意味を持ったそれら、また視覚像と概念がつながったあとのコップや椅子という用途としての意味を持ったそれらを指します。コップや椅子の用途や存在意義まで含めた概念です。

 また、当然、その対象が「裸の事実」か「着た事実」であるかはそれを見る者によって違います。ある人にとって「裸の事実」だけど別の人にとっては「着た事実」である、またはその反対も同様です。

「裸の事実」や「衣服をまとった事実(着た事実)」はあのん師匠の造語です。

(例のごとく、「わたしが思いつくぐらいだからもうすでに誰かが別の言い方で用語としてあるだろうなあ」と師匠。【追記】あとで調べると「裸の事実」と呼ばれる用語がありました。ただそれらは師匠の定義とは似ていますが少し違うようです。ここではここでの用法で遣われます。師匠はねえ、哲学に興味はあるんだけど「きっちりと勉強したことはない」(本人談)らしいんです。「ちょこちょこっと本を読んだだけ」(本人談)ですって)

 

3.先験的なものは「裸の事実」、そこにまだ意味はない

 さて、経験から完全に独立したカントの言う「純粋認識」、あのん師匠はどうやら信じていないご様子。鼻先でふふふふであるようであります。

 意味を付与される以前の事実だけの存在である「裸の事実」がまずあり、次に経験による意味付与を経由して「着た事実」になる。

「着た事実」になって人はそれを意味内容とともに認識し理解できる。

「先験的なもの」、すなわち「経験を経由していないもの」は「着た事実」以前の「裸の事実」の状態である。それは存在していても「意味のある認識対象」にはならない。

「先験的なものはない」と主張しているのではないんです。個人の経験の経由していないそれらがあったとしても、経験がないと「それがなんであるかわからない」。まだ意味が付与されていないから当然です。意味が備わっていないものを措定して、意味を備えることができないにもかかわらずそれに意味を付与するという「無茶」をしています。

 病気の原因となる細菌やウイルス、重力による天体の運動などは、人類が発見する前からあります。人類がそれを知って概念化する前から存在しております。ただ人類は知らなかった。知らないことはわからない。『その存在の有無という問題すら発生しない』。

 あらゆる意味は経験的なものだ、となるとこの世に先験的普遍的原理はあったとしても原理的にわからないことになります。

 まあね、この世界に絶対的普遍的原理というものがあってそれがわかっているのならもうとっくに全世界の学校で教えられていますよ。そして「宗教なるもの」は消滅している。あるいはそもそも発生しない。

(「先験はあったとしてもわからない裸の事実あのんが発見」という狂歌もどきを師匠はひとりごちていらっしゃった。あまりにも駄作でありすぎたので、そのときわたしは顔のひきつりを隠すためにずっと横を向いておりました)

 

4.ただしこれは存在論的な話ではない

 この稿はあのん師匠の「わたしたちは『事実の世界』に生きている」から始まりましたが、その「事実の世界」もいろいろと問題がありましてね。世界構造に関しては今までに師匠から繰り返し講義を受けています。ですからね、師匠のおっしゃった「事実の世界」であるというのもこの稿を導くための議論の前提の一つとして述べられただけなんです。

 師匠が軽々しく無限定で「この世界の事実」などと無茶な言いようはなさらない。おっしゃるときはなんらかの条件下です。普段は「こういう条件を仮定した段階の世界では~」を前置きとして始まります。今回は「概念」を説明するため用の「裸の事実」を言い出しやすいようにお遣いであった。

 この世界に「裸の事実」はいくらでもある。人の視界に入っているけれどそれを認識していないものは「裸の事実」です。そして経験によって概念化された「着た事実」にそれらがなったとき、やっとわたしたちは「それについて考え始めることができます」。

 わたしたちがなにかを考えるとき、「それらについて考えている」と思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。「それらがまとっている概念について考えている」んです。本来のそれらは実はもともと「意味を持っていない」。多数の意味を持っていない「何か」の関連を考える、などということはしませんからね。

 ここまで読んでもらえれば、わたしたちは概念の海に浮かぶ小舟、が読み取れたと思います。

 師匠から命じられた宿題、合格点もらえるかな。

 なお、「事実は存在する(か)」という問題は存在論の問題です。また別の問題なのでここでは述べません。(だって、すんごく難しいんだもん。わたしゃやだ。師匠、言っておきますからね、わたしには難しすぎて書けない。存在論の問題なんか出さないでください。子供に難しい問題をだすなー。ふう、こうして予防線を張っておこう)

 

 

 ここに記したものは「あのんの教室」でわたしが学んだことをわたしなりにまとめて書いたものです。

 書いたわたしでさえ実はあまりよくわかってないんですけどね。

 しかしそれを上回るのが我が師匠。

「弟子よ、わたしの言うことは信用するな。故意ではないが結果的に間違えていることを平気で口にする。それはわたしの過去の行いが証明しておる。わっはっはっは」

 さて、師匠のおっしゃることをどこまで信用しましょうか。

(2016.10.31掲載)

 

 

(メモ)

●盲目の人の目が見えるようになって最初に外界を見たとき、三次元の空間把握はどうであったか。想像だけど、おそらく「触覚像」を「視覚像」にあてはめようとしたんでしょうねえ。手の届く範囲であれば、左右・上下・遠近は自分の指でさわることを想像してあてはめやすかったと思う。手の届かない範囲は、「まさしく想像範囲外」であったろう。想像範囲外の三次元空間をどう受け取ったか。カントの言うアプリオリな空間を形式としてあてはめることは不可能であろうな。空間は知覚の経験としてしか与えられない。概念としての空間は後づけである。

●主語概念の定義 A=A について AはAであるとするとき

 最初に提示された主語Aは「経験によって特定されたA」(ほかのものと区別されることを特定とする)、述語Aは主語Aと同じなのでこれが分析的判断であるとするなら、「AはAである」はアプリオリと判断される。しかしこれが分析的判断とされるためには「同じものは等しい」という「経験的判断」が必要である。

 なぜ「同じものは等しい」が経験的判断であるか。

「裸の事実」の状態ではそれらを「同じもの」として認識できないからである。「裸の事実」に概念という衣を着せて経験を経たうえで「着た事実」に置き換えてやっと「同じもの」とわかるのであるな。

「裸の事実」の状態では、「AはAである」というアプリオリとされる前提が成り立たない。成り立たないものがわれわれに与えられても意味不明である。

(※初心者向け用語解説 【分析的判断】 「AはBである」という文において、主語Aのなかに述語Bが含まれているような判断のこと。これに対して「総合的判断」というのがあり、これは主語Aのなかに述語Bは含まれていない。)

●カントは空間や時間は物自体をおさめる形式であるとし、まずそれらが先立ち、次にわれわれが対象を認識するという順である、であるからアプリオリなものは存在すると主張した。師匠は空間やら時間やらイデアのような物自体まで言及しない。まずわれわれに「その事実」が与えられたところから話が始まる。与えられた「その事実」は「裸の事実」か「着た事実」のどちらかである。「裸の事実」はなにかが存在しているが属性不明なので存在していること以外意味がない。「先験的であること」にかかわる問題は発生しない。

●師匠いわく。「哲学が神の夢をみていた時代の話ですね。基準や原理を発見しようとしていた。もちろんわたしも昔はその一人だったんですよ」

弟子「で、見つけたんですか」

師匠「『見つけた、見つけなかった』という問題を説明するのが難しい」

弟子「端的に言うとどうなんですか」

師匠「説明するのがめんどうくさい」

●絶対的真実があり、それを人が認識するのなら「宗教なるもの」は発生しない。

 そのようなものに対しては誰も意見の相違がないので、それは結果として「周知のもの」「常識」となる。普遍性が与えられる。

 一定の範囲に含まれる者たちだけが信じ、それを布教しないことには「信者」が増えないような「教え」は「普遍ではない」。

「宗教なるもの」は「無根拠の幻想」を中核とした「意味不明へ向かう愚行を楽しむ行為」であるな。(人類は「神」を掲げて殺戮しまくってたもんね)

 ただし、その途上で有益なものも発見発明されることがある。

 あのん師匠の意見では、「科学という名の宗教がおそらくもっとも有用なものを発見発明した宗教であろう」となります。(ということは師匠においては「科学」は普遍ではなかったのか。そういえばたまに「天狗様のおつげである」とかほざいて、おっしゃっておるもんなあ。意味わからん)