あのんの辞典 注釈 別添

 

 

印籠と承認欲求

 

 

水戸黄門の印籠に平伏する者を見る快感

 

 

執筆者 あのんの教室 代講 ぴょぴょ

 

 

1.印籠効果

2.承認欲求

3.応援自慰

4.印籠効果の拡張

5.権威と崇拝

 

 

1.印籠効果

 わたし、以前はテレビを喜んで見ておりました。

「水戸黄門」というテレビドラマがありました。

 母親が夢中になって見入るので、家族が皆一緒に見ておりました。

 小学生の高学年になるころには、ちょうど「宮本武蔵」が大嘘であるのと同じように、これも作り話であることを知ってました。

 ドラマの終盤、例によって黄門一行は葵紋の印籠を掲げ、「ええい、これが目に入らぬか」。その場にいた者たちは皆「ははぁ~」と平伏するわけであります。

 その瞬間、視聴者は快感を感じるわけであります。

 その快感を感じたいがためにこの番組を見ているわけですね。

 わたしは「印籠→平伏→快感」の一連の流れを勝手に「印籠効果」と命名します。以下、この用語を遣います。

 中学生になってしばらくすると、わたしはもうテレビなぞろくに見なくなりました。

 それ以降、史実としての水戸光圀とドラマの水戸黄門は区別して、ドラマの方にはちっとも興味がなかったのですが、今回「印籠効果」をたまたま考える機会がありました。

 最初のきっかけは忘れてしまったのですが、「葵紋の印籠が出て、それに平伏する場面で視聴者に爽快感があるのはなぜか」という疑問が浮かび、約五分ほどかけて考えました。

 五分後に答えが出ました。

 わたしは賢い。わたしは偉い。(ああ、歓喜と陶酔の自画自賛)

 

2.承認欲求

 人には誰かから価値を認められたいという欲求があります。「承認欲求」と呼ばれます。

 この大きなものが、名誉を得たいという名誉欲であります。

 その名誉欲が満たされると大きな快感であります。

 名誉とまで大仰な言い方をしない、ちょっとした称賛でさえ快感であります。

 一風変わった性癖を持つ人以外は、誰かから自分の価値を認められ称えられえるのはたいてい快感であります。

 さて、わたしたちが小説を読んだり映画を観たりするとき、一般的にわたしたちは主人公側の立場から物語を見ます。主人公に感情移入し、同化します。

 主人公が苦しい場面ではわたしたちも苦しく感じ、喜ぶ場面ではわたしたちは喜ぶ。つまり「主人公=わたし」であります。主人公が苦難を乗り越え「成功」すると、その「成功」はわたしたちのものです。

 水戸黄門の番組では、「黄門一行=視聴者」であります。

 葵紋の印籠が掲げられ、それを見た者は「幕府の権威」に平伏します。

 ここで、「幕府の権威=水戸黄門(一行)=視聴者=わたし」であります。

 それまで越後のちりめん問屋の隠居であったひげじじいが、一瞬にして水戸黄門に変身します。

 その者が高位者であることがわかり高位者と認められる。現在の日本に住む「わたし」は高位者ではありませんが、物語の中では「高位者=わたし」です。

 印籠で平伏した者たちは「わたし」を高位者として認め、高位者に対する振る舞いをする。

 承認欲求が満足させられ、快感がやってくる。

 これが「快感の正体」です。

 

3.応援自慰

 この承認欲求を別の事柄に当てはめてみましょう。

「ある対象に自分を同化させ、その対象が承認欲求を満たすことで、その充足快感を自らに引き入れる」という行為を自ら気づかずにしていることが発見されます。

 スポーツ観戦でひいきのチームを応援するとき、自分はひいきチーム側に立ちます。(ひいきチームを「自チーム」と記します)

 心理的に「自チーム=わたし」です。

 自チームが勝てばうれしく、負ければくやしい。勝ったのが「わたし」であり負けたのが「わたし」だからですね。

 勝ったときの喜びを味わえるのも、自分が勝利者であるという承認欲求が満足させられた状況に置かれるからです。

 となると、自チームを応援するという行為は、「わたし」を応援する行為で、勝利の美酒を求めて「快感を得られるその一点」へ身を打ちふるわせて大声で叫び激しく狂乱します。

 これ、自慰です。

 自宅の自室でやると近所迷惑になる可能性があります。(あのお宅の○○さん、大声でするのよ。まあ、いやねえ。ひそひそ)

 野球場やスタジアムでやるぶんには文句はでません。ただし公開自慰です。

 勝敗があるようなもので、出場者の一人やチームに肩入れして応援することは、肩入れした時点で同化していて、応援行動にとりかかることが自慰の開始です。

 しかも公衆の面前、人前でするということは、ああなんと恥ずかしいことでありましょう。

 野球場やスタジアムなら、全員自慰を目的として入場しているので「節度ある管理下」にあると言えるでしょうからまだよし。

 自慢が精神的自慰であることは即座に理解できますけれど、同化による承認欲求の満足の移転を手段として利用して、その満足の招来を身体的活動で希求するという「応援」が自慰であること、五分ほど考えないとわかりません。

 これを読んでいる皆さんはもうわかりましたね。

 ああ、でもその自慰がいけないことだと言っているわけではありません。

 それが自慰だとわかっている者にとっては「恥ずかしく感じる可能性がある」ぐらいです。

 ほぼ大部分の人たちはこのことを知ることはありません。安心してください。交じりたければ知らないふりをして交じればいいんです。

 

4.印籠効果の拡張

「ある対象に自分を同化させ、その対象が承認欲求を満たすことで、その充足快感を自らに引き入れる」の例として応援を挙げました。

 この「印籠効果」をこのように一般化しても差し支えないので、「印籠効果」を一般化、拡張したこのことも「印籠効果」と呼んでおきます。

 そうすると、これによってまた別の現象も説明できます。

 すなわち、社会に悪い影響しか及ぼさない特定の思想的主張や宗教的主張を根本的教義とする集団の構成員になりたがる種類の者たちの存在です。

 少なくとも愚かでなければそれらの集団の主張は明らかに偏っているのがわかりますが、残念ながらその者たちは知能が低いのでわかりません。

 そのような者たちはそれぞれの主張を「布教」する活動にのめり込みます。そして「その活動の動力源が自慰」であることに気づいていません。

 主張を誰かに伝えようとする行為は、それが相手に受け入れられた場合は承認欲求の満足が得られるので、避けなければならない嫌がる相手への押しつけはやがて得られる快感の期待によって無視されます。相手の迷惑より自己の快感が勝ります。

 また、組織体と同化しているので、「布教」による新たな構成員の獲得は自己の強化を意味し、強化の度合いが強くなればなるほど得られる快感は強くなります。

 狂気へ向かって接近勾配があります。そして自慰と連動しています。

 これらの活動を見かけて、「あの連中の頭のおかしさがわからない」と皆さんは感じたことはあると思います。

 頭はおかしい、でほぼ間違いはありません。そして、その上、「あれらは自慰なんです」ね。狂人の自慰です。

 その「教義」に心酔する謂われはありません。そもそも理解力はありません。ただ、「たまたま快楽を提供してくれる仕組みに出会って、そこに陥っただけ」です。

 この種の自慰は「害悪自慰」と呼ばれるべきでありましょう。

 

5.権威と崇拝

 初めに思いついた「印籠効果」における「印籠」は「権威」を意味しています。

 水戸黄門の場合は「幕府の権威」です。

 拡張された「印籠効果」における「印籠」は、「それを依代として扱うことによって生まれる権威」と一般化してみましょう。

 テレビドラマの水戸黄門の視聴者はその番組を見る前に「自分は幕府の権威を認めている」と自覚していませんね。ほぼ絶対に意識していないと思います。たかがその時間にテレビをつければ放映している番組と、過去のある政治勢力が持っていた社会的影響力に対する肯定的心情を関連づけようとすることはないでしょう。

 しかし、印籠に平伏する場面で「快感を感じる」以上、「すでにあなたは幕府の権威を前提としている」。

 これね、「あなたが反幕府側の人物であるとしたとき」は「快感は感じない」ことでわかると思います。(現代人に17世紀の幕府に対して肯定的か否定的かどちらの立場かという条件に基づく問いは苦しいんですけど。出す方も答える方も苦しい)

 現代のわたしたちと二百年以上昔の光圀の時代の幕府の権威とは断絶しています。関係がありません。

 それなのに「なぜ権威を認めているか」。

 西洋中世を舞台にしたようなファンタジー作品をわたしたちが鑑賞していて、そこに「印籠効果」のような場面があれば同じような心の動きがあるでしょう。

 個別に与件として与えられた条件に従っているものではないようです。

「承認欲求を流用する」という「印籠効果」の考え方からだと、わたしたちは「権威という依代」と同化しているがゆえの心の働きと言えるでしょう。

 これは、権威に寄り添おうとする傾向は防衛本能の発現で、自らの位置を安全圏内に置こうとしているからでしょう。

 一面では、「権威」を認めることはそこに自己を投影させた「自己肥大化」という操作であり、また他方、すがりつくことのできる依代としての機能を持ち、いわば「便利な心理的道具」でありましょうか。

「権威」とそれに対する「崇拝」は、自己に対しては「自利のための利用」、他者に対しては「その形式へ押し込めることでの利用」でしょうか。

 

 

(あのんの教室で上記の話をしたところ、あのん師匠から文章にするように命じられましたので書きました。なかなかうまくまとめることができませんでした。とりあえず習作ということでご勘弁を。なお、上記の内容はすべてわたしが考えたことですが、もしかして同様の事柄をすでに述べた人がいるかもしれません。あるいは、それどころかすでに常識ですよ、と言われるかもしれません。わたしが考える程度のことは誰かが考えていてもおかしくないので、そうならば二番煎じか、今頃なに言ってんの、ということになります。2016.03.23掲載)