あのんの辞典 注釈 別綴

 

 

人権という宗教

 

 

なにかをしているなにか、《不定物》のよりどころ

 

 

執筆者 あのんの教室 代講 ぴょぴょ 

 

 

 師匠は「一風変わったお人」である。

 といって人に迷惑をかけてしまう奇矯さはおありにならない。

 真面目だし親切だし丁寧だし、たまに「うっかりさん」になってあわわとあわてふためいてお一人ですべって転んでのたうちまわっていらっしゃるときはあるけれど、そんなときでも人に頼らずお起きになって少し涙をにじませながらご自分で後片付けをなさっている。

 もちろん弟子のわたしがそのような場面に行き合えば走って行ってお手伝いをする。決していい気味だとは思わない。うん、絶対に思わない。あれだけわたしに難しい無理難題をお命じになる師匠だけど思わない。これだけ繰り返して言うんだから本当である。いい気味だとはこれっぽっちも思わない。(ぶひぶひ。ぜえったいにほんとーです)

 さて、お優しい師匠であるが、師匠も学ばれた。すなわち「優しくすることがまちがいである」ような場合があることをである。

 それらは「あのんの辞典」の【六禁忌】を見ていただければよい。

 放置しておくとなにをしでかすかわからない頭のよくない連中向けの「このようにしましょう」の教育をお受けになり素直にお信じになった師匠はそのおかげで大変な目にお会いになった。

 そしてお決めになった。「相手にふさわしい態度」をおとりになることを。

 師匠のお話をうかがっていて、この稿はわたしが書きたいと思って書き始めました。

 

1.「それ」は「人」か

2.権利の生まれる場

3.法はどこから来るのか

4.理性に対する信仰

5.人権という宗教

6.「なにかをしているなにか」、《不定物》

7.文化の違い

8.《不定物》とどう向き合うか

 

1.「それ」は「人」か

 目の前に「あるもの」があって、それを「人」であるかどうかを判断する場合、あらかじめ「人」というものがどのようなものであるかがわかってないといけません。

 定義というほど厳密でなくても、「この基準でいえば『人』ですな」、ぐらいでもかまいません。そして、そのような基準は複数あります。

 まず、目の前のそれが「人」であるかどうかは誰もが「生物学的」に判断するでしょう。「生物学的な基準」です。

 悲惨な例を持ち出して恐縮ですが、ぺちゃんこに潰された「元生き物」の死体ならば骨や血液や細胞や遺伝子を調べる必要があります。調べないと「生物学的」に「人」であったかどうかわかりません。他の動物の可能性もありますからね。

 そこまで極端に特殊な場合でなければ、目の前にいるのが「人」であるかないかは外見を見ればわかります。外見で「ああ、わたしの目の前にいるのは『人』だ」と判断できます。

 これが「生物学的基準」です

 それとは別の基準があります。

「法的」に「人」であるかどうか、です。

 わたしは母親の胎内の胎児は「人」として見ますが「法的」には「人」ではありません。亡くなって火葬される前のご遺体もわたしは「人」として見ますが「法的」には「人」ではありません。

 胎児はまだ生まれていない「人」であるとわたしは判断します。ご遺体はすでに亡くなった「人」であるとわたしは判断します。

 しかし、「法的」な基準とわたしの見方が違います。「法的」にどうであるかはわかっていますが、わたしはわたしの考えを堅持します。

 だいたいこれらの二つの「人の基準」があります。

 こんな当たり前のことだけを書くということはわたしはしません。まだ別の「基準」があります。

 すなわち、「文化的」な基準です。「文化的」に「人」であるかどうかです。これは人生を誤らないためにきっちりと押さえておかなくてはならない基準です。

 ここでいう「文化」は「個人や集団の基準や習慣等から生まれる行為や結果等の総称」です。

 判断するわたし側の「文化」があり、判断される相手側の「文化」がありますから、この判断基準は相対的なものです。

 世の中にはたいへん残忍な人を殺傷する事件が起こります。わたしはそのような事件の加害者を「人だとは思いません」。加害者の「文化」では当然の行為の当然の帰結であるかもしれません。加害者にとっては当然であっても、わたしの「文化」から見てそのようなことをした加害者は「人」ではありません。

 ところがこの加害者は「生物学的には人」で「法的にも人」です。

「人」であることの分類は他にもいくらでもあるでしょうが、本稿ではこれらの三つで話をします。

「生物学的」に「人」かどうかは調べればわかります。(科学的分析による決定)

「法的」に「人」かどうかは法律次第です。(立法環境による)

「文化的」に「人」かどうかはそれを判断する人次第です。(相対的文化比較による)

 

2.権利の生まれる場

 たぶん多くの低能さんは人権という概念が宗教的概念であることに気づいていませんね。

 人権という概念を用いて悪いことをする連中がいるので、そのような連中からの被害を避けるために少し難しいかもしれないけれど「人権は宗教である」を理解しておいたほうがいいんですね。

 もちろんこの「あのんの辞典」を普通に読める人なら常識として知っていて、なにをいまさら、でしょうけど説明の流れで少しお付き合いをお願いします。

 まず、人権とは人の権利に関することであるわけですが、この「権利」とはなにか。

 ちょっと考えてみましょう。自然科学の分野に「権利」はあるか。

 科学的研究の対象となる範囲に「権利」は出てくるか。出てきませんね。

 科学は事実を対象として研究しています。「権利」は物質的事実の背景には存在しないし、諸要素の関係に概念としても出てきません。

 このことから「権利という概念」は自然科学的事実世界から独立して人が作り出したものであることがわかりますね。これは「義務」も同様です。

 次に考えることは、どのような条件下で「権利」が発生するか。なにがかかわっているときに発生するか。

 はい。これ、「人がかかわっているときに発生します」。権利の主体って「人」なんですね。

 また、このことは誰が決めたか。「人」が決めたんです。勝手に人が決めたんです。

 

3.法はどこから来るのか

 人が勝手に作りだした権利、作り出した理由はいくつでも述べられますけど、それらはすべてなんらかの目的を理由としています。

「人が、『なんらかの目的』のために『権利という概念』を勝手に作った」。

 はーい、これなにかに似ていますね。

「誰々が、自らの信じるところに基づいて『神という概念』を勝手に作った」。

「権利」も「神」もその発生機序は同じなんです。

 必然的な帰結として出てきたものじゃなくて、恣意的に作られたものです。

 論理的必然性がないので「存在証明は不可能です」。

 ただ、これによって「権利」の効用がない、と言っているわけではありません。それどころか「権利という概念」はきわめて有用で法律体系に組み込まれて社会の円滑な運用にかかわっています。「権利と義務」という概念が通用しないと約束事が成り立ちません。

 たいへん有用な概念でこれがないと社会生活は事実上成立しません。

 身近にもたくさん勝手に作ったものであっても誰からも一切文句が出ないものもあります。

 日本は自動車は左側通行です。ほかの国では同じ左側通行もあれば反対の右側通行もあります。これらはそれぞれの国が勝手に決めたものです。どうしてそうなったかの歴史的経緯はありますが、根拠がこうだから「こちらが正しい」とは誰も言いません。

 どちらかが明らかに有利・不利ならば左右を変更することもあるでしょうが、いままで誰も変更する理由を見つけていないようです。

 勝手に作った、不都合はない、じゃあそれでいいじゃないか。

 はい、そうなんですね。

 権利義務を含めた「法」全般を見てみましょう。

 法律の成り立ちの分類というのがあって、大きく二つあります。

「実定法」と「自然法」。

 実定法というのは、「この目的のためにこのような法律を作るぞー」と考えて作られたものです。

 交通安全のために、信号が青なら進む、赤なら停止。これを守れー。

 この実定法によるものは根拠がわかりやすいですね。この目的のためにこのような規則を作った。守るとこれだけいいことがある、守らないと不都合が生じる。だから守りましょう。

 もう一つの自然法。これがひねくれておる。

 ひねくれているというのは生易しい。実は「大嘘」です。

 実定法だとね、その成立時にいろいろな立場から当然反対意見も出るわけです。紛糾しすぎて成立がおぼつかないようなものもあるわけです。そこで自然法という分類をでっち上げた。

 この法律は「自然本性から当然に導かれる」と看板を掲げた。

 昔はね、この「自然本性」という言葉の場所に「神」という言葉が置かれたんです。キリスト教の一神教の「神」です。

 全知全能の神が定めたと宣言すればそれですんだ。文句を言ったら火あぶりにされます。誰も文句を言わない。

 そのうちにやっぱり「神」だと都合が悪いからもっとかっこうのよい「理性」にしようと模様替えをした。どうだ、人間の理性を基準にしたら誰も文句を言わんだろう、と。

 

4.理性に対する信仰

 理性とはなにかを調べると、知的能力の一つで推論・論証能力であると言われる場合が多いようです。賢いか馬鹿かの物差しですね。

 これね、水泳能力と同じなんです。泳ぎの上手い人もいれば下手な人もいる。さらには今まで水泳を習う機会がなかったので全然泳げない人もいる。体に障碍があって泳ぐことができない人以外は、適切に練習すれば最低でも「とりあえず水に浮かんで少しは進む」ぐらいはできるようになります。つまり、一般に「人には水泳能力がある」と言ってもさしつかえありません。

 これを理性について言うのなら、「人には理性がある」となります。

 ところがこの理性というやつ、水泳能力と同じで「方法・手段であるにしかすぎない」んです。

 じゃぼんと水に落ちたとき、水の中では息をとめて、浮かびあがったら息をして、手足を動かして沈まないようにして、なにかとっかかりのあるところまで泳ぐ。これ、水泳能力。

 解決しなければならない問題があって、ああだこうだと考えて方法を探す。準備して手順を整えて実行する。これ、理性による解決です。

「理性」とは「方法・手段としての形式」の一つです。溺れないための方法・手段が水泳であるのと同じです。

 これは「感情」とくらべるとわかりやすいでしょう。

 好き嫌いという感情があります。わたしはAという人物は好きだが、Bという人物は嫌いだ。Aから遊びに誘われたら喜んで行く。Bとだったら、偶然同じ場所にいなければならなくなっただけで気分が悪い。Aは選択するがBは拒絶するという「感情的判断」。

 一方で、Bという人物とはこれからも顔を合わすことがあるだろうし共同でなにかの作業をすることもあるかもしれない。将来のことを考えて余分な波風は立てないように振る舞っておこうという「理性的判断」。

 このような「感情という形式による判断」と「理性という形式による判断」があって、どちらの形式を選ぶのかが自由であるときはどちらを選んでもいいんです。

 飲み物が珈琲と紅茶があって、どちらを飲みますかと聞かれたら飲みたいほうを言うという選択と、給料日までの日数と財布の中身を勘案して本日のお昼は廉価定食にしておこうという選択。

「理性の方を選ぶ」というのもね、「選択肢の一つにしかすぎない」んです。

 そして形式にしかすぎないものを根拠に祭り上げた。

 その「理性」を「神」のかわりに条文に入れた。

「宗教という容器に入れられた形式としての理性」です。

 ある判断を理性でするか感情でするかは本人の勝手です。自然法という宗教法でこの世界を運営するのも人類の勝手です。

 わたしが不快に思うのは、自然法が宗教的概念に基づいているということを説明していないところです。基本的人権なるもを否定しているわけじゃないんです。よい考え方だと思っています。しかしそれが大嘘から導いていることには口をつぐんでいる。

 

5.人権という宗教

 試しに人権を謳った主要なものを見てみましょう。その人権がなにに由来するかをです。

 

・バージニア権利宣言、1776年。これは自然権から来ています。

・アメリカ独立宣言、1776年。「造物主」から与えられています。

・フランス人権宣言、1789年。神授による自然権からです。

・水平社宣言、1922年。意味不明。(読んでわかる人、わたしに教えてください)

・日本国憲法、1946年。憲法の基本的人権は自然権からとされていますが、もとになった英語のGHQ草案では「一神教であるキリスト教の『神』」が顔をのぞかせています。(草案の作成過程まで遡るのでめんどうですが興味のある人は調べてみてください)

・世界人権宣言、1948年。はい、これも自然権から。

 

 さすがに一神教で言う「神」に由来するとの話は、知識として一神教を知っていていてもその文化で育っていないわたしたちには「無理」ですね。即座にアレルギー反応が出ます。じんましんが全身に出てかゆくてたまらなくなります。

「自然権」もいろいろ説明されていますが、「人間が社会を作る以前から持っている権利」です。これ、ただそう言い放っているだけ。根拠もなにもない。歴史的な「大嘘」です。

 人権という宗教的概念も、人類社会に良い意味で貢献してくれるだけならわたしもこの稿を書き始めなかったでしょう。

「神なるもの」は人を守り心の安寧ために作られた。しかしその力を利用して社会の破壊を行う者たちを輩出させた。どれだけ人を殺したか。

「人権という宗教的概念」は社会のなかで理不尽な扱いを受ける人々を助けるために作られた。たいへんよいことだと思います。しかしその概念を利用して紊乱と騒動を起こす連中の道具にもなっている。侮蔑をこめた意味で「人権屋」と呼ばれる輩どもがいますね。そのような連中が「まるで人権という概念には誰も反対できないものであるかのような態度」で人になにかを強要します。

 

6.「なにかをしているなにか」、《不定物》

 師匠は、生物学的・法的に「人」であるけれど文化的に「人」ではない存在を「なにかをしているなにか」と命名なさった。(「なにかをしているなにか」をここでは用語として《不定物》と言うことにします)

 師匠はお気づきになった。

 それらの中には「人権という宗教」を自らの背景に設えて舞台を作り上げている連中がいることを。

 このことはわたしへのお話のなかで話してくださった。

 誰でも「よって立つところ」を持っています。人によってさまざまです。

 そして、師匠の見方では「人権という宗教」を自らのよりどころにしている者はほぼ確実に「文化的に人ではない」。「なにかをしているなにか」、《不定物》である。

「人権という宗教」は一向にかまわないのですよ。

 またこれの説明を省略するのも許せます。なぜなら、適切にそれを扱わないと事故がおこるようなものはそれを適切に扱える能力のない者に扱わせてはいけないからです。

 あほ子供に「人権は捏造」と教えると、必ずそれをもとにして人に迷惑を及ぼす行動をとる一部が出てきます。これはいけません。そんなあほ子供にはむしろ教えてはいけない。虞犯少年にわざわざ有害薬物の取り扱い方法を教えるようなものです。

 しかし「人権という概念は捏造ですよ」との事実をすべての人に最後まで言わない態度は詐欺師であります。

 誰からも教えられずともその虚構性を見つける師匠のような人はいくらでもいます。そのような人からは「捏造であることを知っているのに一切それに触れない連中」は人類に対する裏切りに思えます。

 そしてそのような《不定物》どもは「捏造旗」を振り回しながら社会の毀損を叫んでいる。

 

7.文化の違い

 師匠は《不定物》を「文化的に人ではない」と捉えました。

 これは「人権という捏造に基づく概念」に洗脳されている連中には出てこない考え方です。

(繰り返し書いておきますが、師匠もわたしも「人権という概念は悪いものだ」と言っているわけではありません。むしろ「良いもの」であると考えています)

 人権という宗教概念を用いると、生物学的に人であれば法的に人であり、そこで人という範疇に掬われてしまうので人であることに安住できます。もうそれ以降どんな悪逆非道であってもずっと最後まで「人」でい続けることができます。

 しかし師匠は「文化的な枠組み」を設定しました。

「文化的に『人』として見られないのであればそれは『人』ではない」。

 ここで問題となるのは「文化」「文化的」という概念です。

 前に師匠は日本人と中国人(漢族を指します)の対人関係の文化的構造をお話ししてくださった。

 中心に「自分」がいて、自分を中心とした最初の円の内側に親・兄弟・子供がいて、その外側の円には親戚や親友や極めて恩のある人がいて、さらにその外側には仕事関係や礼儀上尊重すべき人たちや友人がいて、その外側の円にはつき合いのなかった同級生や近所の顔見知りがいて、それ以遠はもう他人に等しいか他人そのものの人たちがいます。同心円状に近しい人は自分に近く、遠い人は疎遠です。

 この親疎の型は全世界、誰でも同様です。

 違うのは「心理的連続性」であります。

 日本の文化だと、縁もゆかりもない全くの他人であっても「袖振り合うも多生の縁」という言葉の示す「つながり」がある(かもしれない)と考えます。(もと仏教用語ですが、この言葉が日本の文化に融合しているという点でここで用いました)

 親疎で言うならば、濃いつながりがどんどん薄く透明になっていった結果としてのほぼ零濃度のつながりがある、という捉え方をします。

 中国の文化では違います。断絶があります。

 家族・親戚・親友は自分を中心とした強固な円内に含まれます。その外側に一般の友人知人仕事関係の人たち。その外側はもうありません。

「もうない」とはそのままの意味です。そこに「人」はいません。

 えと、あの、その、「他人」はどうなるんですか、と疑問がありますね。

 はい。中国の文化では「他人は人間ではありません」。道端の雑草と同じです。

 日本の文化だと他人と接するとき、低能さんは除いて通常は最低の礼儀は維持します。相手も同じ人間ですからね。

 中国だと利害関係のない他人は、「生物学的には人間である」「言葉は通じる」ぐらいの要素しか持っていません。中国では人権という概念は通用していないので、「相手を人間として見る必然性がない」んですね。(これは、人権という概念が通用するようになっていないから、ではなく、それとはかかわりなく「他人は自分と同じ人間ではない」という中国本来の文化であります)

 日本でも凄惨な事件はありますが、程度と規模において中国は段違いに多く大きいですね。これ、「他人は人間ではない」という文化があるので残忍に何千万人殺しても平気なんです。(自分たちなら殺す。ならば当然日本軍も多くの中国人を殺したに違いないとの捏造を本気で信じてしまうのが中国人です。日本人はその感覚が想像すらできないので、なぜこんな嘘を叫び続けるのかと怒ります)

 その反面、中国人は一度信頼するとその相手を親兄弟と同じ立場に置きます。困った時はほとんど命を擲ってでも助けようとしてくれます。(これを反対から見ると、もしその中国人が困った状況になったとき、こちらは命をかけて助けることを期待されます)

 中国は「法治ではなく人治」と言われますが、これね、「他人は人間ではない」ところからきています。

 他人も自分と同じ人間であるのなら、自分が保障してもらえる権利も他人に与えなくてはいけません。そのためには法のまじめな施行と適用が確実でなければなりません。自然と法治主義へ移行します。

 でも、他人は人間じゃありません。法律は「人間である自分(たち)」に利益を与える道具以外の活用法はありません。法律は恣意的にしか運用されません。

 師匠の《不定物》という概念は、中国文化の「他人」に対する概念と似ていると考えると理解しやすいかもしれません。

 

8.《不定物》とどう向き合うか

 有用度と危険度は比例します。

 有用なものはそれだけ「力」を持っているので、扱い方を誤るとその力に比例した損害をこうむります。

 包丁は調理にかかせませんが指を切るかもしれません。自動車は移動に便利ですが事故を起こすとけがをしたり死んだりします。地球の裏側へ行くときはだいたい飛行機に乗りますが墜落するとほぼ確実に死にます。

 危険なだけで有用ではないようなもの、少しは有用なんだけどそれを無視してしまえるほど危険なものは一律に禁止してしまえばいいのですが、包丁や自動車や飛行機はどうしましょうかねえ。禁止できますか。できません。おもいっきり便利です。必要不可欠です。

 過度な飲酒は健康に問題が出てきますが、適度な飲酒は人生のうるおいです。かつてアメリカ合衆国は禁酒法を制定しました。ギャングの資金源を作っただけに終わりました。

 賭けごとや売春も倫理的な問題や治安の悪化という問題がありますが禁止して根絶することは不可能です。

 ある程度問題があっても、それを必要としている人たちがいるのなら「必要悪」として社会に居場所を作っておく必要がありそうですね。(ただしこの「必要悪」は「悪」の部分に注目した表現です。賭けごとをおもしろさで判断したり、売春を機会と経済的価値の交換の便利な取引と見るのであれば「必要善」になります)

 さて、「人権には誰も反対できないものであるかのような態度」で人権屋が大声で叫びまくっています。馬鹿でなければ「人権は宗教的概念である」ことはわかるはずなので、人権屋のなかには馬鹿でない者もいるにもかかわらずそれについては一言も言いません。

 まるで「確立した原則」扱いをしています。ちっともそうではありません。宗教的概念なので「信じたい人は信じて一向にかまわないけれど、原理的には無制限無限定に主張できるものではない」んです。

 そして「人権」が現代の人々の間で使われているのは、「その成立がいい加減なものであるかもしれないけれど、その利用価値がそれなりにあるから」です。

 絶対的な価値ではありません。「それなり」の価値であります。

 それなりに有用で価値のある「人権」をわざとあやまって使うと「不当な武器」として力を発揮します。

 加害者の人権(なるもの)を被害者の人権以上に強く主張することが公平でしょうか。

 この点では、まずその加害者が「人であるかどうか」を検討すべきでしょう。「人権という宗教的概念」を持ち出すのであれば「文化的に人であるかどうか」をもともに考えるべきであります。

 なぜなら、「文化的に人でないこと」を「宗教的規定による法的に人であること」で一方的におさえつけようとしている主張があるからです。

「文化的判断を斟酌することなしに宗教的独善を押しつけている」。

「まるで人権という概念には誰も反対できないものであるかのような態度」がそれです。

 はい。これは大嘘です。独善の押しつけという詐欺です。

 こういう大嘘を叫びまくっている連中は明らかに文化的に「人ではありません」。

 ただし、文化については相対的なものです。

 嘘つきの国ではよりだませる嘘をつけるものが偉いんです。師匠やわたしが「嘘つき」と呼ぶ連中の住む国では、わたしたちは「嘘をつかない愚か者」と馬鹿にされていることでしょう。

 さあ、どうしましょうか。「なにかをしているなにか」、《不定物》に対してわたしたちはどういう態度をとればいいのか。

 師匠は「相手にふさわしい態度」をおとりになるようです。

 わたしもそうしなければなりませんね。

 そしてみなさんはどうなさいますか。

(2017.02.27掲載)

 

 

 ふう。

 いつもながら「がんばって書いている自分」を自覚する。

 まちがいもあるんだろうけど、今のところ自分ではわからない。

 でも、子供のわりには書けているでしょ。

 ぴよちゃん、えらい!

 

 

【追記:あのん師匠いわく。「実は、人権をよいものであると言えるのは目的論的である言い方しかないんですね。ですから、断定するような言い方はなじまないんです。せいぜい到達のための努力という自分たちに対する激励の形なんですよ」】