あのんの辞典

 

 

「ま」

 

 

【邁進】(まいしん)名詞 この装飾品を身につけるとお金が儲かったり異性にもてるようになる、との広告を子供の頃に見て、どんな馬鹿がこの広告に騙されるのかと驚いたものだ。しかし、いまでもそれがあるということは、限度のない馬鹿というものはある割合で存在し続けるということを示している。その限度のない馬鹿がいる限り、まわりからどう思われようと馬鹿を騙すことに際限なく邁進する連中がいる。

 

【前向き】(まえむき)名詞 たとえ刑死直前であろうと悪党は後悔しない。あっぱれ、とまでは思いたくないが、殺される前に後悔する自信があるような者は悪いことに前向きにならないほうがよろしかろう、とこのことはわたしたちに教えてくれる。

 

【まき散らす】(まきちらす)動詞 自分が幸せでないからという理由で不愉快さをまわりにまき散らしている者がいる。自分が幸せでないことに不公平感があるのだろうか。原因と結果を取り違えていることに早く気づけばいいのだが。

 

【孫の手】(まごのて)名詞 祖父や祖母と両親を介してつながりのある者の手のこと。その用途は各自恥ずかしがらずに克明に述べてもよい。

 

【まじめ】(まじめ)名詞 一般にまじめであることには良い評価が与えられるが、その例外はまじめな馬鹿の存在である。目の前で子供が溺れていても、売り物の浮き輪は代金と交換でないと手放さない。

 

【魔女狩り】(まじょがり)名詞 事実上有効な防衛手段を持たない者に言いがかりをつけて、各種の意味で相手を抹殺しようとする行為。昔の魔女狩りと違い、現在の日本では被害者を装って魔女狩りをする。

 

【マスコミ】(ますこみ)名詞 大衆への情報伝達のこと。国家権力は三権分立によって一部の独走を防ぐ仕組みを形式的にせよ備えているが、人の判断の基礎となる事実を伝達する使命を担っているマスコミは、自浄作用の仕組みがそもそもなく、まるで自浄作用がないことを奇貨としているかのように誤報虚報捏造を垂れ流す暴挙を平気で行っている。近時、インタネットの普及で今までのサイレント・マジョリティが変な濾過膜を通さない意見を発信するようになり、マスコミは自ら描き出す幻影の支配権を死守するために、個人が意見を発信する仕組みに対し生理的嫌悪感でいいがかりをつけようとしている。どうにかならんかね。

 

【またぐら】(またぐら)名詞 他人の興味をひく発言をする「口」とならんで他人の興味をひく行為を行うヒトの身体器官の集まったある範囲をさす言葉。「口」による発言で歴史が動いたように、またぐらがなす行為によっても歴史は動く。

 

【またの機会】(またのきかい)副詞・格助詞・名詞 またの機会が話者の間で想定されていなくても、この言葉をにこやかに交わせるようになれることが望ましい。もちろんそれは、お互いのためにである。

 

【間違い】(まちがい)名詞 間違いを指摘されると、その間違いのことは無視して「間違いを指摘されたこと」に腹をたてる者がいる。このような者は本人は友達がたくさんいると思い込んでるが、本人が勝手に友達だと思い込んでいる人たちは皆その者を嫌っている。間違いない。

 

【待つ】(まつ)動詞 子供が苦手なことの一つに「ある時が来るまで待つ」ことがある。そしてその待つ時間をどのようにして過ごすかの技術の習得を怠ると、大人になってもやっぱり待つことが苦手なままである。当辞典編纂者も待つことが苦手である。まだ子供なみである。

 

【学ぶ】(まなぶ)動詞 人は争いや苦痛から多くのことを学ぶが、平和や安楽からは何も学ばない。しかし、平和や安楽は人が求めてやまないものである。何も学ばない状態へ至るために学び続けるという行為を、人においてはその生涯を終えるまで、人類においては滅亡の日まで続けることになる。まあ、それもよし。

 

【真似る】(まねる)動詞 規範にすべき先人の真似から入るという方法は効果的でもあり、また一般的な方法でもある。はじめのうちはその個々の行動を真似る努力によりなにかしらいろいろと得るものがあるだろうが、しかしそれだけで終ってしまってはいけない。真似るのは先人の目的を追い求めるその姿勢であることを忘れてはいけない。

 

【迷い】(まよい)名詞 するかしないか迷ったときに「しないで後悔するよりして後悔したほうがましだ」との理由づけが意味を持つのは経験の浅い者に限られる。それによって自らの判断のまちがいを学習するからである。取り返しのつく後悔はいくらでもしてよい。

 

【満足】(まんぞく)名詞 不足や不満等を解消する効果的な手段方法が用いられて成功したのちにやってくる感覚。多くの場合、それらの不足や不満が不足や不満でありえないことを理解し、またそうでない時はできるだけ満足の度合いを小さくすることによって、満足の感覚を生涯にわたって持続することができれば、かなり人生は生きやすく楽しいものになる。